死をもたらす大罪

こんにちは!

今日は、私が日頃からよく読んでいて、自分の内面に影響を受けた箇所を取り上げようと思います。

アナスタシア〜第1巻〜(P211-214)

私は口を閉じた。草の上に腰をおろし、アナスタシアから目をそらして、自分を静めるために川岸に行こう、彼女とはもうこれ以上話をするまいと決めた。ところが、河岸に向かおうとした私の背中に話しかけた彼女の声に私は驚かされた。その音声には、攻撃も非難もまったく感じられなかったからだ。
「理解しないといけない、ウラジーミル。人間の世界に起こる悪いことはすべて、人間自身が、霊的存在としてのあるべきルールに違反して、自然とのつながりを失ったときに自ら引き起こしている。
闇の勢力は、分刻みに動いていく技術優先社会の魅力で人間の意識を奪い、聖書にすでに示されているシンプルな真実と戒めから離れさせて、それについて考えないようにしむける。彼らはそのもくろみに絶えず成功している。
人間に死をもたらす大罪はプライドという自尊心。ほとんどの人はこの罪に支配されている。この罪のはかりしれない害毒について、今あなたに詳細な説明はしない。〜
今はただ、これだけ言っておく。光の勢力の対極にある闇の勢力は、人間がこのプライドという罪を手放さないように秒刻みで働いていて、お金はその主要な道具。お金を考え出したのは彼ら闇の勢力。
お金は、危険な高電圧区域みたいなもの。

私はどうしても、この死に至る危険、精神の腐敗をあなたから取り除いてあげたかった。それで、この闇の勢力のメカニズムが弱まり、破壊され、あるいは逆に、罪の根絶に向かって作用するような、あなた専用の仕組みを考えた。だから彼らはすさまじく怒っていた。
彼らの怒りはあなたの中に入った。あなたは叫び、私に向かってあらん限り、ののしり言葉を浴びせはじめた。彼らは私を怒らせようとした。私の中にあなたに対する怒りを爆発させたかった。でも私は絶対にそれはしない。〜あなたの中で暴れまわっていたのは、プライドという罪」

私はアナスタシアに出会うまで、プライドというのはある種「誇り」というか、なくしてはいけないもののように捉えていました。
しかしながら、そのプライドというのは、人間社会の中において存在するものであり、アナスタシアのように自然の中に溶け込んで、自然と一体となって生きているならば、プライドはいらないのだろうな、と思いました。

プライドはいらない、という考えで行動すると、誰かに嫌な思いをぶつけられたり、失礼や無礼なことをされたり、自分の存在を軽んぜられたりないがしろにされたりしても、怒らなくなるから不思議です。逆に何故この状況でこの人の口からこのような言葉が出るのか、このような態度を取るのか、どのような真意からか、と考え、ネガティブな感情や思考はほとんどが闇の勢力と結びついていると考えれば、それは自分も周りもネガティブな方向に向かわせる訳ですから、彼らの思うつぼになる、とも思うのです。

〜第2巻〜 (P242)

彼女が繰り返していたのを覚えている。「何も隠してはいけない。いいことも悪いことも。プライドという自尊心を飲み込みなさい。ばかけた人と思われたり、誤解されたりすることを恐れないで。」と。言われたとおり、私は何ひとつ隠さずに書いた。それでどうなったかと思いますか?本の中の私は完璧なバカという印象になっています。〜

本の中でのきみの行動がそのままきみの印象になっているというのも、彼女のやったことだ。それはまちがいない。
だが、このことで彼女はきみを卑しめたのではない。きみを救ったのだ。束になって襲ってくる闇の勢力を全部ひとりで引き受けて。それなのにきみは、その彼女に対して…誤解といらだちという痛みを返している。考えてみたまえ。純粋に愛からこれらのことを創出した彼女にとって、きみからのそうした反応に耐えることは容易なことかね?」
「いったいどんな愛なんです?愛する人を笑いものにするっていうのは」
「人々にバカと呼ばれる人はバカではない。お世辞を本当だと思う人がバカなのだ。考えてごらん。きみはほかの人にどのように思われたいのだね?ほかの誰よりも優れていると?非常に知的だと?最初の本でそうすることも可能だったが、そうすれば、プライドという自尊心と自負心がきみを破滅に陥れてしまっただろう。
賢者の中にさえ、これらの罪に抵抗できている人はほとんどいない。プライドという自尊心は、不自然なイメージを創り上げ、その人の内に生きている魂を覆う。過去の哲人や現在の天才と呼ばれる人たちがほとんど何も創り出せていないのはそのためだ。彼らは最初のひと言を書きはじめた瞬間に、自負心にとらえられ、初めに与えられていたものを見失う。」

後天的な闇の想いを持たない人間は愛の光を発する、とアナスタシアは言う。
本の中の、創造主の内の内から発せられたような輝きを解き放つアナスタシアの言葉の数々は、信じるに足る深い説得力がある。

だから、日々の生活の中で、プライドという自尊心が出てきてないか、真実の愛に向かって生きているか、常に考えるのである。

続き

ではどのように、自分の身をそこに置くのか。
まずは非物質的存在を自分の内に認識することが大事ではないかなと思います。

物質的な意識は生活の中にあるので身を置きやすい。
しかし、非物質的側面にほとんど意識をおかない現代の生活様式にあって、自分の意識を非物質的側面に置くことはとても難しいと思います。
これから少しそのことについて深く考えていきたいと思います。1つ思うのは、非物質的側面に深く導いてくれるような書物を読む、ということかなと思います。そういう場所に身を置く、というのもいいかもしれません。

話は変わりますが…
マイケル・J・ローズの本を読んで思ったこと。

「執着することなく相手を愛する。真の愛は感情ではない。真理である。しかし私たちは愛を感情の一つにしてしまい、愛する人に執着するという失態を犯す。」

まさにこれ。私が目指す愛はこれです。

これから誰かを愛する際には、感情で愛するのではなく、まさに真理で愛したいのだ、そういうことなのだ。
それは、アナスタシアが第2巻で言っていた、前々回の投稿内容と同じ事を意味している。


まさに相手を感情的に捉えるのではなく、非物質的側面において愛するように自分を変化させてみよう。
相手を「好き」という感情で思うことを辞め、ただただ大きな存在としての愛と同じ感覚だけで相手を想ってみよう。
それで相手が去っていったならそれまでのこと。真の愛がそこに存在するならば、決して去っていくことはない。去っていくということは、それ自体が執着という感情から結びついていた事を意味している。相手への関心が薄れるという意味は、相手を5感で、頭で、脳で判断していたということであり、真の愛の内にあらず。彼を大いなる愛の内に感じること、太陽の光が射す時に彼を感じ、爽やかなそよ風や美しい鳥のさえずり、新緑を愛でる時、彼の内にある愛を感じたい。たとえ彼がどのような行動に出ても、執着心を捨て、ただひたすらに自分は大いなる愛に身をゆだねて生きること。そのように彼の愛を感じ、私の愛を伝えることしかもはや出来ないような気がする。

愛の次元空間を感じるためには

こんにちは。

相変わらずバイブルのように毎日アナスタシアの本に触れています。
と同時に、最近はマイケル・J・ローズの本も読んでいます。「愛の目を通して」というタイトルの本なのですが、切り口は違うもののアナスタシアの話している事とかなり近い内容の話で、とても興味深く読み進めています。

そんな中で1つ思ったのが、自然界に存在するものすべて、一つ一つがエネルギーを持っており、そのすべては自分の近くのもの(遠くの星とも)と相互に関係性を保っていて、調和を図ろうとしているのではないか、ということ。その調和の一部に私たち人間も関わっているし、人間はその自然界の関わりを深く洞察する力を兼ね備えており、自ら意識的に働きかけることが出来る存在なのではないか、そう感じました。

アナスタシアの「一族の土地」を創りたいと何年も思ってきたけれど、私の中で「自分の所有する土地のすべての生きる存在が自分自身で相互の調和を図ることが、私が求めている空間形成であること。そういう相互の関係性を愛でること、大切にするというスタンスが、土地の中で愛の次元空間を生み出す事に繋がる。」という事なのかもって…思った。

そして、そういう気持ちで物事に接するためには、物質的な流れのエネルギーや時間的流れに身を置いていてはうまくつながることは出来ず…非物質的なエネルギーの存在を感じる事に意識を持っている事が大切で、その次元空間に身を置くためには、魂がその非物質的な流れを生きる、自分の心の落ち着きや魂のいる場所がその次元空間に身を置いていなくては、そのエネルギーを享受出来ないのではないか、と思いました。

アナスタシア第2巻から

こんにちは!
またブログの更新に時間が経ってしまいましたm(_ _)m

色々なことがあって、少しアナスタシアの本を読まずにいましたが、いつも心に迷いが出る時、私が立ち返るところはアナスタシアです。

ところで、愛、特に男女の愛とも言える内容の箇所がありましたので、あえてピックアップしてみます。

第2巻〜P186-187〜

きみがわれわれの世界で生きられないのと同様に、私はきみの生きている環境の中では生きられない。
それなら、なぜ君の愛が必要だろう?きみの愛は意味をなしていない。それに今に至るまで、私はきみと私の関係を理解できないでいる。共に一緒にいることは決してできない、それがはっきりしているのに、二人の関係にどんな意味がある?
「私たちは一緒よ、ウラジーミル。いつも共にいる。」
「一緒?きみはどこにいるんだい?ふつう、人が愛し合うときはいつもお互いのそばにいようとする。抱きしめたり、キスしたりするために。きみはふつうじゃない。きみにはそういうことは必要じゃないんだ。」
「私はそういうことをとても必要としているわ。ふつうのひとと同じように。そして私にはそれがあるの。」
「どういうこと?」
「今もそう。感じない?そよ風のやわらかな感触とその優しい抱擁。頬に触れる太陽の陽ざしの暖かさ。〜」
「でもそれは、今きみが言ったことはすべて誰にでもあることだよ。これがみな、きみだって言うのかい?」
「ひとりの人に向かって宇宙空間に解き放たれた愛は、多くの人の魂に触れることができる。」
「なぜ愛を宇宙空間に解き放つんだい?」
「そうすれば、愛する人のそばに、愛の次元空間が存在するようになる。ここに愛の本質と目的がある。」

今、少しだけここの部分が分かるような気がする。
そこを大切にしたい。羞恥心、嫉妬心、自尊心を内からなくして、ただただアナスタシアの言う愛を解き放てますように。

落ち着いた感

久しぶりの投稿です。
最近は都会の近郊にあるとある施設に頻繁にお邪魔しています。
その施設にアナスタシアの本を置かせて頂いています。
時々読んで下さる方がいるようで、とても嬉しいなと思っています。

男女の愛について、この1ヶ月くらいずっと考え続けて…何となくトンネルを抜けた感があります。(考え疲れただけか…(笑))

やはり、少しでも相手の気持ちの見返りを求めたり、相手の反応を期待するような気持ちは「愛」ではなく「恋」に分類されるような気がする。人生、おおいに恋をすべきだと思っているけれど、感覚として大きな愛の感覚に浸ると、「恋」という感覚は愛に比べると何というか次元が違うくらいに比べものにならないような気がしてしまう。

そもそも「愛」という概念自体が曖昧だし、男女の感覚を包括しているかどうかすら、賛否があるように思う。

愛の感覚が本当につかめたのなら、もう恋を求めなくなるような気がするし、愛の中にいるだけで十分幸せを感じることが出来るような気がする。。

同じ感覚でいられるような相手が側にいて、同じ方向を向いて歩いていけたなら、新たな男女の愛を感じて生きていけるような気がする。出会っているような気もするし、よく分かりません。

アナスタシアの言うところの男女の愛

アナスタシアの言葉にかなり影響されている私ですが、
いつも彼女の本を読んでいても、
自分の中でしっくりくるには、やはり自分の心が体験を
通して感じることも大切なのかなって思っています。

アナスタシアは男女の愛についてもよく言及していて、
肉体的な結びつきが先行してしまうことは問題であると語ります。
アナスタシアにとっては男女が肉体を通して一つになるのは
「共同の創造」、つまり新しい命の創造であって快楽の追及ではないと
きっぱり断言しています。

私も男女の愛については本当によく考えます。
アナスタシア的観点からすれば、
どんなに熱く、愛しい相手に恋をしていても、
それが肉体的な欲求を伴うものであれば、
それは愛ではなく、はかないものであると思われます。

歳のせいなのか(44歳)、アナスタシアによるものなのか
分かりませんが、私はもういわゆる「恋愛」とか「恋に落ちる」
というようなことはないだろうと思っています。

逆に、肉体的快楽を伴わず、普遍的な愛、
深い部分からあふれ出てくるような愛を
ある特定の異性に注ぐってどういうことなのだろう、
ということについて、自分の経験を通して識りたい、
と思っています。

そのために大切だと思うのは、
まず、自分の中で愛が完結していること。
アナスタシアがいうように、プライドという自尊心や
執着心、欲求などを捨てて、自分の中にいる自分が
心穏やかであることがまず第一歩かなって思っています。

そして、自分の人生を歩む覚悟をして一歩踏み出すこと。
まず自分の人生を歩もうとしなければ、
いつまで経っても相手は現れないような気がします。
だって、自分の人生を歩んでいないというのは
自分の本質を生きていないのだから。

私もまだまだ道半ばだけど・・・
周囲の圧力や社会概念にとらわれることなく、
自分の道を進んでいけたらいいなって思っています。

久しぶりに更新

明けましておめでとうございます。

すっかりご無沙汰しています。
久しぶりにこのブログを開きました。

私は相変わらず、アナスタシアの本を毎日開いて、
自分の心の軸を空と土に向かうように、
縦に向かうように意識しながら毎日を過ごしています。

人とつながると、やっぱり色々な感情が沸き起こり、
アナスタシアの本のように、「ただ感じること」
「自尊心というプライドや煩悩のような感情を
自分から排除すること」から離れて、つまらないことに
心を奪われてしまう気がするけれど、
最近は少しずつ、自分自身と向き合ったり、
自分の心が欲するところに進んでいく気持ちが
強くなってきていて、自分のことが、ありのままの自分が
好き、良しと思える、そんな気がしてきています。

アナスタシアがいうように、昔の人は息を吸うように
食べ物を食べていたのでしょうから、食べ物のことで
思い悩んだり、そこから派生する数々の病気に煩わされる
こともなかったんだろうなって思う。


ところで、私の今年の目標の一つは・・・
「男女の結びつきは肉体的結びつきにあらず」を
自分の中に落とし込むこと(笑)。

「恋」すること、つまり、相手と最終的には肉体的に結びつきたいと
思う気持ちというのは、アナスタシア的観点からすると、後天的に
身についた感情だという思いがあり、そういう思いではなく、
純粋に「愛する気持ち」だけで異性と結びつくことが出来るのか、
ということを自分で体験を通して感じられたらなーって思っています。

もちろん、出会いがなきゃダメですけどね。。。(笑)

このことについても、少しずつ更新していけたらと思います。